楽曲解説
澤谷夏樹(音楽評論)
代替メディアとしてのピアノ室内楽
ドイツ中部ヴァイマル公国の公子ヨハン・エルンストは1713年、オランダへの留学を終え帰国した。その際、公子はアムステルダムで大量の楽譜を買い求め、ヴァイマルに持ち帰る。その中には当時流行の協奏曲がたくさん含まれていた。ヨハン・エルンストは、それらの協奏曲を鍵盤楽器1台で演奏できるよう自国のお抱え音楽家に編曲を命じる。宮廷楽団を自由に使うことができなかった公子にとって、奏者が1人で済む「鍵盤楽器だけの協奏曲」は、好きなときに管弦楽曲を楽しむ唯一の方法だった。
そんな経緯で生まれてきたのが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガンないしチェンバロ1台のための協奏曲群だ。マルチェッロやヴィヴァルディ、テレマンらの協奏曲の編曲が並ぶ。これらの作品が「管弦楽曲の代替曲」であることは、編曲依頼の動機から見て明らかだ。つまり18世紀の初め以来、鍵盤楽器は管弦楽の代替メディアとしての役割を持っていた。もちろん鍵盤楽器独自の音楽も豊かに花開いたが、「ピアノの世紀」である1800年代にいたるまで、鍵盤楽器の代替メディア性は失われなかった。
2012年、横浜でのライブ録音
交響曲を3人で
そんな性格を、ベートーヴェンの《3つのピアノ三重奏曲》作品1(1793-95年)は受け継いでいる。この3曲は「3人で演奏する交響曲」なのだ。第1にその楽章構成。ピアノ三重奏が4楽章制をとるのは当時としては異例のことだ(モーツァルトの同ジャンルは3楽章ないし2楽章)。第3楽章に舞曲(スケルツォまたはメヌエット)を据え、両端にはソナタ形式の速い楽章を置く。ハイドンやモーツァルトが実践し、のちにベートーヴェン自身が交響曲の楽章制の基本として採用するスタイルである。
第2に、ジャンルとしてのピアノ三重奏曲の在り方。ベートーヴェンは1802年、《交響曲第2番ニ長調》を作曲した。1806年にはこの曲のピアノ三重奏版楽譜が出版されている。編曲は作曲者自身とされているが、定かではない。誰が編曲したにせよここで重要なのは、交響曲がピアノ三重奏曲に編曲されて流通したという事実だ。こうした編曲は当時、よく行われていた。ピアノ三重奏曲は交響曲の代替メディアだったのだ。
当時、音楽家の成功と言えば第1にオペラ作曲家として、第2に協奏曲を自作自演する演奏家として、第3に交響曲の作曲家として立つこと。1792年にウィーンに移ったベートーヴェンにとって差し迫った課題は、第2・第3の成功を手にすることだった。1795年3月にはピアノ協奏曲の自作自演を実現し、演奏家としての地位を築く。次の課題は交響曲だが、大オーケストラを雇うほどの経済的余裕も、ハイドンやモーツァルトといった先輩の作品を凌駕する自信も、この時点のベートーヴェンにはない。しかし野心はある。
そんな不協和な心持ちに折り合いをつけるためのジャンルが、ピアノ三重奏曲だった。ベートーヴェンは「作品1」に、その時点で手中に収めていた交響曲創作の技術を注ぎこむ。ピアノの高音域に現れる旋律は、フルートによる主題の確保を思わせるし、両手が同じリズムで広い音域の和音を掴むあたりには、管楽器の総奏による和声の色づけが感じられる。弦楽器もまた、その役割を刻々と変化させながら「交響曲」の彫啄に寄与する。いずれも、音域によって音色がはっきりと異なる当時の楽器の特性を活かした措置だ。ベートーヴェンは「代替メデイア」の機能をこれでもかと発揮させて、交響曲作家としての実力を示そうと試みた。
だから私たちも、「作品1」を「交響曲第0番」のつもりで聴いてみると、これまで見えてこなかった面白さを発見できるかもしれない。すでに存在した「作品1」を反古にし、《3つのピアノ三重奏曲》に改めて「作品1」を与えたベートーヴェンの気概は、この曲集を「交響曲第0番」として聴くことによって初めて理解できる。
初演の意義
さて、ここでは目先を変えて「作品1」の初演の状況に注目したい。この曲の初演は1795年の夏、ウィーンのリヒノフスキー侯爵邸で行われたとされる。館の主カール・フォン・リヒノフスキーはベートーヴェンの大パトロン。1793年から95年までベートーヴェンは侯爵邸で暮らしていた。館では毎週金曜日に音楽会が催される。侯爵はそのために4人の弦楽器奏者を雇っていた。したがって「作品1」の初演では、ベートーヴェンがピアノを弾き、弦楽器奏者のうち2人がヴァイオリンとチェロを担当した。
当時の音楽雑誌『贅沢流行新聞』(ワイマール, 1788年)には、貴族の館のような私的な場で室内楽を演奏する際の理想的な環境について、次のような記述が残る。曰く「(あらゆる音の変化をも聴き取れる)静かな室内で、音楽に通じた3、4人の注意深い人々を前にして演奏するべき」と。「作品1」の初演が3、4人だけを前に行われたかどうかについては定かでないが、ごく少ない人々の前で曲が披露されたことは想像に難くない。その中にはヨーゼフ・ハイドンも含まれていた。したがって「作品1」の初演には、自分の大パトロンと、師匠にしてヨーロッパ音楽界の大立物ハイドンを前に、ベートーヴェンが自らの演奏で「交響曲第0番」を披露する、という意味があった。
こうしてみると、楽器編成のコンパクトさや、初演環境の規模の小ささに比べて、ベートーヴェンが世に問おうとした「音楽家の矜持」の大きさは相当だ。とすれば、「作品1」でコンサートを開く本日の演奏者のみなさんの「矜持」もまた大きい。3人の奏者、収容人員100名の会場から、交響曲の大きな楽想が聴こえてくる演奏会。聴衆の期待もまた、大きく膨らむのである。
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