2022年3月27日(日)豊洲シビックセンターホール
横山博ピアノリサイタル『ジョン・ケージを探せ!』当日パンフレットより
無から出て、無に帰す。
無に帰して、無から出る。
音は消えゆく。
音は立ち上がる。
「沈黙という
ものはない。何かが音をたてながら
つねに起こっている。
いったん本当に聴き始めたら
誰も考えることなどできない。
これは非常に単純だが、きわめて急を要することだ
つぎにどうなるかは神のみぞ
知る」
ジョン・ケージ(1957)*注1
音楽家が演奏を始める。
音を出す行為は、音を開始してから持続することにふつう注目がいく。リスナーは音の開始と変遷に注目をする。楽譜は、音の開始点と持続する長さを指定する。
しかし音楽家の技巧と個性がどこに顕著にあるのか?実は音を終える行為にその自由さが表出しているのではないか。楽譜上には、音の弱めかたと途切れる地点は厳密に指定されていない。音を弱め、減衰させ、止めることの支配に広大な自由がある。楽器は進歩するほど、減音機構が精緻になっている。
この話を今日の演奏者横山博と交わしていたら「トイピアノは一度鳴らしたら、鳴りっ放しであって、止めることには介入できませんよ」と反論を受けた。たしかにトイピアノは、鳴らす速度と圧力で音量が定まるため鋼のバーを叩く時点で音は定まって、それ以降には介入できない。本質を付く指摘だと理解した。
先日2月に催された作曲家「松平頼暁90歳の肖像」コンサートにおける「スパークル」(1997)の演奏で、アンサンブル最終盤で中村和枝のトイピアノがバッハのプレリュードの引用を鳴り響かせた時の原初的な存在感にその感動を得た。当然、他のアンサンブル楽器が音の減衰を制御できる中に鳴り響く、放たれたトイピアノ。*注2
「私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が働いている音で、低い方は血液が循環している音だ、と教えてくれた。私が死ぬまで音は鳴っている。そして、死んでからも音は鳴り続けるだろう。音楽の未来について恐れる必要はない」
ジョン・ケージ(1957)*注3
一方、音響工学者のトレヴァー・コックスに、元同僚スチュアート・ブラッドリーが語っている。
「南極大陸で静寂を経験したことがあるかとスチュアートに尋ねると、地球上でおそらく最も不毛な、雪や氷で覆われていない干からびた谷間で過ごしたときのことを話してくれた。『静かな日に谷壁に座っていると、聞き分けられる音がまるでなかった。(心臓の鼓動と呼吸だけは聞こえたかな)。生命も存在しない (私以外)。だから木の葉もない。流れる水もなく、風の音も聞こえない。あの原始の [気配] は紛れもなく衝撃的だった』『無響室では閉塞感を覚えることがあるが、あちらではそれがなかった。……信じがたいほど静まり返っていても、眺望がものすごく開けていたからではないだろうか』」 *注4
リスナーはどうか。
「曲を鑑賞するという行為そのものを忘れたらよい。忘れるというよりも思い描こうとすることを止め、音の中にいることを意識する程度のことだ。その意識もその内にどうでもよくなる。退屈ならどこかへ行けばいいしその場で寝てもいい。大声でわめき散らせるならばすればよいが、それで何かが変わりはしない。意味を問おうとするのはやめた方がよい」と音楽評論家・湯浅学は記した。*注5
一文はLP「タージマハル旅行団 August 1974」に寄せられており、主唱者であり、後にはケージと、マース・カニングハム舞踊団の音楽を担当した小杉武久は ”Instruction Works” の中で
Performing a piece of music on an instrument;
sudden stoppage of performing an action;
continuance of the stoppage without movements;
*注6
「音楽の曲を楽器で演奏する;
突然演奏のアクションを停止;
動くことなく停止を継続;」
と演奏行為を指定している。
停止に注目することでアクションの精度を上げ、表現を豊かにすることができる。
演出家の鈴木忠志は、コンテンポラリーバレエの金森穣に対して「動きから作るのではなく、止まることをやらなければだめだ」と繰り返し述べていた。(*注7) 鈴木の劇団の俳優の静止姿には凄みがある。動きを訓練し抜いた成果が、静止表現の向上にも顕れている。他方でどんな動きも滑らかにこなすバレエに、アクションとして静止がプログラムされていないという指摘がされている。流麗に朗々と表現されるパフォーマンスの意外な盲点であろう。停止を明白にゴールに定め、そこから動作を前もって振り返り、いざ動作を始める。
サンスクリットは「ア」音で始まり「ウン」で終わる。
「空海にとって『ア』音は一切の音の始源、従って意識・存在の始源である。梵字のアルファベット表で『ア』の文字が一番最初の位置を占めることがそれを暗示する。そしてまた『ア』は、一切の音の根源である」*注8
と碩学のイスラム学者井筒俊彦は記す。
優れたパフォーマーは最初のアクション前の静止においてその力量を遺憾なく発揮する。その息がぐいっと止まる時に鑑賞者も息をのみ、止まったパフォーマーに身を乗り出す。静止ぐあいが只者ではないとすでに鑑賞者をしびれさせる。
「ア」を発声する前の喉のすぼまりがすべてのアクションの開始準備の姿勢である。「ウン」で一度閉じた有が集結して、ふたたび帰ってくる。「ウン」から「ア」へめぐる間を無が占めていて、その無にこそ何もかもが収まっているということだ。
「 無以外の 何ごとも 語ることができない。
音楽のなか に無を聴き つくるのは こうして生きることと
–– より簡単なだけで –– あまり違わない 。
より簡単というのは 、私にとって、– 私が音楽を書くと
無が生じるから 。 」
ジョン・ケージ(1952)*注9
有からすべてを除去すると無が現れるのではない。有と無には連続性はなく、とてつもない断絶があるのみだ。「無の無化」(ハイデガー)では有はできない。無に何とはなしに「在らず」ということがおきた。無の非在。転じたものが有の初源だとすれば辛うじて描写ができる。
沈黙をさらに掘り下げる。掘り続けて、掘り抜く。いずれ硬い芯・核に突き当たるが、その障害に阻まれてもなお掘る。反発に対してさらに貫き通す。いわば全身で炸裂させる。そこでようやく有が破壊し尽くされているだろう。このあり得ないほどの労苦で無に到ることができるかもしれない。無を経てから見返す有は輝きを得ている。
そうした経緯を通した存在の実感を持つ者は限られてはいるが、いる。
「4分33秒」を初演したピアニスト、デビッド・テュードアの回想。
「当時の聴衆には、かなり難しい作品でしたね。それでも200人近い聴衆が集まったから、実験音楽のパフォーマンスとしては、相当集まった方でしょう。あれは、僕のソロ・リサイタルでしてね。僕も演奏したことがなく、聴衆も聞いたことがない新作も交えて、全部で9曲選んで演奏したんですよ。『4分33秒』が最後から2番目に来たんです」
「リサイタルが終ってから、オープン・ディスカッションをやったんです。聴衆は実に不愉快そうで、腹を立てていた。あるアーティストは『あなたがたは、今、即刻この町から逃げ出して行くべきだ!』とサジェストしてくれた。」
「ニューヨークでも、日本でも演奏したけど、うわさがうわさを呼んで、聴衆もある程度コンセプトが分かるようになっていましたね。だから、回を重ねるごとに反応は違ってきてましたね」*注10
耳の解剖学にふれると知れるのが、内耳の蝸牛管というらせん状の音の響鳴室(あえて漢字を誤る)と、蝸牛管を充たす電解液で、各周波数を受け持つ有毛細胞が振動すると電位変動が起こり、脳神経に伝達され、音が認知されていくプロセスだ。(*注11) 耳の構造が、楽器など音の発音構造の裏返しになっていることがまず興味深い。音が始まり、変動が起こる。音がキープされている間は電位の変動は起きない。だが音高が動く、音圧が変わる。音が止まると内耳に変動が生じて、初めて音を感じる。音の減衰の支配に演奏の本質があると主張する論拠だ。
「音の生成は、緊急かつ独自であって、歴史や理論も知らず、想像力を越え、表面を持たない球体の中心にあって、妨げられることなく、勢いよく広がっていく。その作用を逃れることはできない。音は離散的な段階の一つとしてではなく、その場の中心から全方向に向けての伝播として存在する。音は他のすべてのもの、音や音でないものと分かちがたく共存している。音でないものは、耳以外の器官によって受け止められれば、音と同じように作用する」
ジョン・ケージ (1955)*注12
フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーは触覚について考察を続けた。触覚とは、物体に触れようとするまさにその直前に作動する感覚だと指摘する。(*注13) ここでもう一つ主張できるのではないか。触れている間、力や位置の変動がなければ、その間触覚ははたらいていない。その位置を離れる(こする、なでる)、または触れるのをやめて、手(皮膚)を放す。そこで触覚は再び作動する。これは先に記した音の受容の仕組みと似通っている。
空を見上げると、明るい一等星などが構成する星座の骨格がまず映る。しかし人の眼が捉えるもっとも弱い六等星も実に数多い。その低い光をあえてぼんやりとした焦点で受け止めると、星図は異なる受容がされることになる。さらに言うならば、夜の曇天の無彩色に極彩色を見ることができる。ダイナミズムの小さい表現の豊かさはそれと比することができる。
作品という作為が制限を設ける、それを受けて表現することについて、ダンサーの萩原富士夫は、ダンスと美術を自由に往来するウィリアム・フォーサイスの揺れる大量の振り子を避けて歩くことで、誰でも踊るように動ける作品=2021年発表の
『NOWHERE AND EVERYWHERE AT THE SAME TIME, N°3 >』(*注14)を紹介し考察する。
「この作品の中を歩くことがダンスになるかならないかはさて置きこれは振付であることには間違いない。この考えを更に進めると建築は振付であるとも言える。更に身体の動き在り方を規定するものは何も物理的存在だけではない。法律や社会通念といったものまで広義の振付である。とするならば?」*注15
楽器という構造はすでに振付だ。また振付の最たるもの、楽譜が表す構造が演奏を規定する。今日の演奏会のもう一つの柱、モートン・フェルドマンはそれを拡張して、図形譜を開発した。従来の作曲家の役割と行動を拡大して、あたかも無化した。フェルドマンはひとり無の中に浸って、周囲に立ち昇る音を拾っていたのかもしれない。彼は出発の時点ですでに無の中にいた。カール=ハインツ・シュトックハウゼンが「あなたの作曲の秘密は?」とフェルドマンに尋ねた。その答え「私の過去の経験は、素材を『いじくり回す』のでなく、自分の集中を起こり得ることへのガイドにします。サウンドを押し出すことはしない」。シュトックハウゼンはしばらく考えて「ほんの少しも?」 - フェルドマン作品をアルバムにしたピアニスト、ステファン・ギンズブールは「フェルドマンの音楽はゆっくりとあなたを沈黙に向けてゆっくりと引っ張っていく。そのものの意志に反して、何か『行おう』とするのは無意味だと気付くだろう」とライナーノートに記した。*注16
今日のこのパンフレットに掲載されている「Intermission 6」の譜面を見ると、これでいったい演奏をどう指定しているのか?と疑問が湧くだろう。Spotifyなど配信サービスでもCDでもよい、今日の横山博の演奏と、これまでの録音作品の共通点と差異に注目してほしい。作曲家が構造の規定をあたかも放棄することで、しかしフェルドマンは作品を規定している。
無を貫く。その反応として貫いた力を越える力が返されてくる。そこに発生するのが音。音は高らかな有の宣言だ。無と有には通常いう接続性はない。音を作る行為で時(パルス、ビート、タイム)は刻み始める。空間が生じるように感じられる。その逆ではない。「虚」と「空」を導入する必要はないだろう。
武満徹は1981年に記した。
「いつか知らぬ間に世界の局面が再び『自由』を脅かすような兆候を示しはじめている現在(私たち)芸術家は、つとめて『自由』を語るべきだろう。そのためにはいかなる率直さも許されよう。音楽は何ものをも指示し限定することがない自由さをもつ唯一の芸術である」。*注17
(私たち)リスナーはこれを共有できる唯一の立場である。彼の一文は2022年のいま現在、いかに強く響きを取り戻していることか。
無の⾳を響かせる勇気は、演奏者よりもむしろリスナーに強く求められている。
すべて無の豊穣があってこその実りとなる。
音は立ち上がり、存在する我々を通過して、消えていく。
無に帰す。
音は無から出て、無に帰る。
無こそがすべてだ。= Nothing is everything.
無こそがものをいう。= Nothing really matters.
すべては無の響きである。= Everything is the sound of nothing.
(文中の*注については筆者の note を参照ください
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